冒険家志望の若者が、角幡唯介の「新・冒険論」を解説します。

こんにちは、タカキヨウです。

冒険家志望の若者が、角幡唯介の「新・冒険論」を解説します。

20歳のうちに一回は死んでおけ。

「新・冒険論」読みました。良かったです。とても良かった。

僕もよく冒険をするので(本書で出てくるシステム外の冒険ではない)、角幡さんが言っている事が、理解もできましたし、共感することもできた。

まぁ、僕の考える冒険とは、日常生活の冒険も含まれていますけどね。笑

また、ちょっと角幡さんとは違う冒険論だ。

それでは、本書の解説をしていきたいと思う。

新・冒険論

冒険の反社会性。

本書の冒頭付近で述べられている、冒険の反社会性を読んで僕は、「あぁ、確かにそうだなぁ」と感心した。

これは、「冒険」自体が「反社会的」行為であるという主張で、「冒険」とは、元々、危険を冒す行為であり、登山なども、ひと昔では、大衆から、意味のわからない行為、「山に登るやつはおかしい奴」とレッテルを貼られていた。

当然である、山に登ったところで、どこかに冒険したところで、そこには、社会的な生産性は全く無く、そんなことに時間を使うなら、働いたほうが日本の為に社会的な生産性はある事は、皆が知っていて、そんなことは、一目瞭然である。

しかも、冒険は、命の危険もおかしており、他人に迷惑をかける可能性も大きいということだ。

「社会的な生産性もなく、他人に迷惑をかける行為。」

これが、反社会的ではないわけがない。笑

しかし、事実として、現代の登山は、どちらかというと、ポジティブな印象の方が強いと思う。

それは、登山が、一般化されてきて、多くの俳優や女優などの芸能人も登山をするようになったからである。

そうなることによって、登山のイメージが徐々に浄化されていき、いまでは、趣味を「登山」と言えば、アクティブでいい印象まで抱かれるようになった。

冒険とは、本来、批判されるべきものなのかもしれないのに、、、

本書の中で「那智の滝事件」が取り上げられている。

これは、紀伊半島にある那智の滝を登攀した3人のクライマーが軽犯罪法違反容疑で警察に逮捕され、そのことが世間から、非常に大きなバッシングを受けたことである。

ちなみに、那智の滝とは、一段の滝としては日本で最も落差が大きく、かつきわめて美しい。という滝であり。

社会的には、この行為は、バッシングされて当然の行為である。

しかし、冒険的にいえば、日本一の高さ、美しさをを取れば、この滝に登攀する行為は至って当然の事である。

このように、「冒険」自体は、完全に「反社会的」行為なのである。

脱システムという考え方。

そして、本書で書かれていることで一番印象に残ったのは脱システムへの情熱である。

脱システムとは、今、僕たちが送っている、あまりに日常的で、システム化され、管理された世の中から、抜け出そうというお話で、冒険で言えば、GPSを持っていかないことであったり、何かの安全対策的なものは持っていかない事であり、これは、現代のテクノロジーを全く使用しないことでもある。

冒険の実例でいえば「服部文祥」のテント、燃料、電気製品、食料を持たずに登山する「サバイバル登山」であったり、「角幡唯介」本人の北極圏の極夜(太陽が昇らない状態)を80日間ひたすら歩く行為であったり、「ショーン・エリス」の人間の世界から、抜け出して、狼と共に生活を送ることであったり

これらは、すべて脱システム的行為であり、「サバイバル登山」はいかに、人間が登山をする場合、道具に頼っているか、「道具」という「システム」から逃れる行為であり、これをした場合、冬季知床半島横断、カラコムルK2登頂、厳冬期黒部横断などの登山でならした実力派の服部ですら、布引山程度の山しか登れなかった。

角幡本人の、極夜の探検は、いかに人間の精神や行動が、太陽の光や、月の明かりに左右されているか、を知る行為であり、これは、日常生活では味わうことのできない、「天体」という、「システム」から逃れることである。(「天体」といっても、普段、人間が接する、一般的「天体」のこと)

ショーン・エリスの狼の群れと暮らす行為は、「人間界」という「システム」から逃れ、「狼」の「システム」内に入ることである。この話は、当然、ノンフィクションであるが、この事実を知った時、僕は、とても衝撃を受けた。それほど、人間が、狼やその他の動物などのシステム内に入ることは、難しいことであり、壮絶なことなのだ。気になる方は是非、「狼の群れと暮らした男」を読んで見て欲しい。

これらが、究極の「脱システム」という考え方であり、行為なのだ。

冒険のスポーツ化。

次に、角幡は、冒険のスポーツ化について述べている。

これは、冒険が、スポーツ化されてきたという事実で、冒険の反社会性でも述べたように、登山や冒険は、一般化されてきていて、それに伴い、道具の需要も伸びていき、高品質な商品も販売され、多くの人が、登山や、冒険に踏み込めるようになった。

それは、同時に、登山や冒険が、道具や先人達のおかげにより、簡単になってきたということでもあり、いまでは、目標地の達成というよりも、無補給だったり、単独だったり、スピードだったりの、自分の身体的能力を試すような、完全にスポーツ化、競技化されてきたという事実である。

そしてこれらは、道具の充実、ルートの明確化、安全性をとれば、脱システムから遠のく行為であり、本来の冒険とは全く違った行為ともいえる。

脱システムすることの重要性。

そして、角幡は、脱システムすることの重要性も述べている。

まず、脱システムすることにより、人間は、外の世界から、今自分たちが置かれている状態を見ることができる。

これは、日本人が、海外へ行って、日本の良し悪しを認識する行為と同じで、これの、究極の場合が、ショーン・エリスの狼たちと暮らす行為であり、エリスは、一度「人間界」の「システム」から逃れたので、知ることができる領域であり、人間が見る、感じる「森」と、狼が見る、感じる「森」は全く違うのもなのだ。

そのことは、一度、脱システムしてみないとわからないことである。

そして、人間は、いかにテクノロジーに守られているか、「服部文祥」のように「サバイバル登山」をすれば、いかに人間が、道具やGPSなどのテクノロジーに守られ、管理され生きていることが分かる。

天体の大切さは、角幡のように極夜の探検をすれば分かるようになる。

そして、脱システムとは「自由」であって、「冒険」とは、自由である。

しかし、今の時代の自由とは、少し解釈が違うのかもしれない。

「自由」とは、本来、不確実で、とても怖いことであって、「管理」されるという事は、行動の自由はないかもしれないが、楽な事であって、これは、本当に自由になった事のある人にしかわからない感覚で、この感覚は、本当の冒険をすることによって味わう事のできる感覚である。

生について深く考えることができる。脱システムの冒険とは、危険を犯す行為であり、死と隣り合わせの為に、生について深く考えることができる。

これは、僕の実体験でもあって、僕は、日本全国で、テントなしで野宿をしていたのだが、初めて東北の森の中で野宿をした時、その時の森の暗さと大きさに対する恐怖感。いつクマが出てきて襲われてもおかしくない状況。

そんな中で、怯えながら野宿をした。とても怖い体験で、死と隣り合わせの環境を味わった。

だから、今でも僕は、普通の日常生活を送れること、毎日、柔らかいベットで寝れることに幸せを見出している。これは、人間の生活とは、システム外の行動であり、そのおかげで、もう一つの幸せというものを見つけることができた。本当に良い冒険だった。

そして、最後に、角幡が、一番言いたいことは、脱システムすることによる、物事を大きく見るマクロな視点や、これらの多角的視点の取得に対する、幸せの感じ方なのではないだろうか。

皆さんの、「新・冒険論」を読んだ感想も聞いて見たいです。

以上です。ありがとうございました。

by タカキヨウ

 

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