こんにちは、タカキヨウです。
映画「ニンフォマニック Vol.1」を考察してみた。
今回紹介する映画はニンフォマニックです。
この作品は、大きくは二部構成に分かれていて、今回はVol.1(第一部)だけの考察です。
ニンフォマニック Vol.1
監督
ラース・フォン・トリアー
キャスト
- シャルロット・ゲンズブール:ジョー
- ステラン・スカルスガルド:セリグマン
- ステイシー・マーティン:若いジョー
- シャイア・ラブーフ:ジェローム・モリス
- クリスチャン・スレーター:ジョーの父
あらすじ
年配の独身者セリグマンが裏路地でジョーを見つけ、セリグマンは彼女を家に連れ込んでケガの治療をし、彼女の人生について尋ねる。ジョーは高度にエロティックな人生についての淫欲にまみれた物語を語る。セリグマンは読書家でいろんな知識を持っていて。彼はジョーの物語を、本で読んだことに関連付けてゆく。
考察
ただのアバズレの物語ではない。
最初に一つ言える事は「ただのアバズレ」の物語ではないという事。
物語のジョーの部分だけとってみても、その内容としてはとても芸術的であって、淫欲だったとしても僕は、
ラース・フォン・トリアーの美学を感じた。それは、物語の中に、数学や、フィボナッチ数列、黄金比を感じたからであるといえる。
それは、映像的なところでもあるが、言葉や、会話の間にも僕は黄金比を感じた。
だから、見ていて、聞いていて飛んだアバズレ映画のように不快な気持ちにはならなかった。むしろ「気持ちが良かった」とも言える。
表面的に映画を見る人にとってはただの「アバズレ映画」にしか映らないと思うけど。
妄想的・否定的
主人公のジョーはとても否定的な女性だ。それはおそらく自分を守る為であって、セグリマンは話の中で一度ジョーの話の嘘を見破っている。
いや、その前に、ジョーの話す内容は、とても奇跡的なもがあり、現実かと問われれば、むしろ「全てが嘘なんじゃないか」という気持ちになるが、物語の中でセグリマンが”それ”を問い詰めると「では、話すのを辞める」というので、それは物語として、この話を終わらせるわけにはいかない。笑
ジョーの妄想的・否定的な部分はやはり、鬱であるからと言える。
ちなみに、この作品は、ラース・フォン・トリアーの鬱第3部作品の中の一つであって、みる人によって評価は天と地の差が生まれるかもしれない。
彼は、鬱傾向を掴むのがとても上手い。彼自身も恐らく「鬱」を持病として持っていると思う。
愛は100人を殺し、SEXは1人を殺す。
ちょっと調べるのがめんどくさいのであれなんですけど、恐らく物語の中でジョーはこう言った
「愛は100人を殺し、SEXは1人を殺す。」
これは、とても本質的な部分を掴んでいて、ジョーは「愛」を信じていない。愛は罪であると考えている。
邪悪なもの、人生にとって不必要なものと考えている。
だが、物語の中で、初恋の男性に「愛」を少しばかり持ってしまった。
初めて愛のあるSEXを、、、のはずが、ジョーはその行為に全く快感を得なかった。
それは何故か。僕にも分からない。それはとてもパーソナルな問題であって、確率的に傾向としてその感情を掴むのは難しい。(僕にとっては)
まぁ、とりあえず”この発言”は面白い。
愛のないSEXはただの行為であって、愛を育むものでもなくて、本能的なものである。
それが一番正しいSEXだと僕は考える。
愛があるからこそ、憎しみや嫉妬が生まれる、それが大衆道徳的にはそぐわない結果を生み出す。
SEXはただの生殖活動でしかないのだ、本能として人間に備わっている機能、行為なのだ。
僕は、SEXは一人も殺さないと考える。実に平和的な行為だと思う。
以上です。ありがとうございました。
by タカキヨウ